当神社は、松平頼純公が寛文10年に市内西田二並山に祀られていた東照宮を合祀して、明治5年現在地に創建されました。 明治6年村社、同16年西條東照宮の名を西條神社に改称、同17年郷社となり、同27年県社に列格されました。 (『西條誌』『新居郡誌』)

 戦後の混乱の影響で、一時伊曽乃神社の摂社となっていましたが、昭和58年再び独立した宗教法人として、西条市の開拓、発展に貢献した人々をお祀りする神社として、その伝統を復活するに至りました。

 家康公とならび当神社の御祭神である西條松平諸公は、紀伊徳川家の分脈で、家康公の御孫の系譜に当たり、よくその「御遺訓」を守り、西條藩主として十代二百年の間、宇摩、新居、周桑郡の村浦に仁慈の政治を敷かれました。 民生安定を計り土地開発や産業、文教の振興に意を用い、近代西条地方の発展の基礎をつちかわれた方々です。

 社殿境内は城郭に模しています。紋入り銅瓦の欅門は精緻な建造物として有名です。
文の神、武の神、勝運の神として崇敬を篤くし、また、「とうしょうはん(西條東照宮)」の呼び名で、市民の多くに親しみを持たれております。

徳川家康公と東照宮

 社宝神祖徳川家康公御画像  長く続いた戦乱を治め、天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川家康公は、慶長10年(1905)将軍の座を二代秀忠に譲った後も、大御所として駿府にあり、影響力を持っていました。長き辛苦を乗り越え、築いた平和を護ることを深く考え、天下泰平、国土安穏、五穀豊饒、萬民快楽を祈り、 後世に言葉を遺しました。
 その内容は、「余を駿河国久能山に納め、一年が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請せよ」そして神に祀られることによって「八州の鎮守となろう」というものでした。
 元和2年(1616)4月17日、家康公は駿河城で75歳の生涯を閉じました。翌年、朝廷から東照大権現の神号が贈られ、日光山に社殿が造営されました。これが日光東照宮です。家康公の言葉どおり、神として祀られたのです。
 家康公が目指した「八州の鎮守」とは、現代風に言えば「日本全土の平和の守り神」です。日光は江戸のほぼ真北にあたります。家康公は不動の北極星の位置から幕府の安泰と日本の平和を護ろうとしたのです。
 東照宮とは、徳川家康公すなわち東照大権現を御祭神として祀る神社のことです。現在、愛媛県下に勧請された東照宮は当神社を含め6社のみです。